「きっかけ」こそ、お念仏 平成30年9月

 「種が芽を吹くためには、土の中に埋められて、そこで何らかの刺激が加わらなければならないのです。」
 ある新聞の中でこのように語るのは、北九州のある牧師さんです。さらにイエス・キリストの言葉を用いて、次のように語っております。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただの一粒のままである。しかし、死んだなら豊かに実を結ぶようになる 」
 私たちは、この世の中を生き抜いていく道には、さまざまな壁にぶち当たり、ときには挫折したり、悩み、苦しみ、迷ってしまいがちなものです。
仏教においては、この世の中を、泥にたとえて、煩悩にまみれたこの世の私たちもいずれは、お浄土に咲く蓮の花のようにきれいな花を咲かすことができると説かれています。
 しかし、その花を咲かすためにも、やはり何かの「きっかけ」という刺激が加わることが必要です。
宗祖法然上人さまは、「智慧第一の法然房」と称せられながらも、自らを「煩悩具足の凡夫」と仰って、励めども煩悩が沸き上がってくるところの私であるということを深く自覚なされていました。
 そんな凡夫のようなものを救い取るために、阿弥陀様は長い長い時間をかけて、すべての行を一切衆生のために、成り代わってくださり、そして、南無阿弥陀仏のたった六字の名号の中に、我が名を呼んで来い!という南無阿弥陀仏のお名号の中に、ご修行下さったすべての功徳を納めこんでくださったのです。
だからこそ、ただ口にお念仏をお称えするだけで、極楽浄土に往生(往きうまれる)させていただけるのです。
 私たちにとって、その「きっかけ」こそ、お念仏ではないでしょうか。このご縁を大事に生かすことが、やがて種が芽を吹き、花を咲かすように、厳しい世の中で泥にまみれ生きている私たちでも迷わずにまっすぐに芽を出すことができるのです。天国ではない、阿弥陀様のいらっしゃる極楽浄土の世界で・・・。

合掌
(文責:長尾晃行)