温かな春の陽射しのように 令和3年3月

 以前、お寺で葬儀があった時のこと…。ある葬儀社の方が「ビーム出てるやつ飾るんですか?」と仰る。初めは何のことを聞いているのかが分かりませんでしたが、よくよく考えてみると、葬儀の時にお祀りする来迎図(らいこうず)のことだと思い、「もちろんお祀りいたします」とお答えしたことがありました。
           
 浄土宗の葬儀では、正式には阿弥陀三尊来迎図(あみださんぞんらいこうず)と言って、阿弥陀さまが臨終の時に亡き方々やお念仏を申す私たちを雲に乗ってお迎えくださる姿が描かれた掛軸をお祀りいたします。(※ただし、地域によって違うこともあります。)
 葬儀社の方が「ビーム」と表現したものは、阿弥陀様の眉間から放たれている光、救いのみ光、光明です。阿弥陀さまから放たれるたくさん救いのみ光、働きに十二種あるとされ、『無量寿経』というお経の中にも、「この光に遇うものは、三垢消滅(さんくしょうめつ)し」とありますから、私たちの煩悩を消し去ってくれると説かれています。その十二の光のうち、「無礙光(むげこう)」という「何物にも遮ることが出来ない光」があり、私たちの目には見えませんが、必ず救いの光が放たれ、私たちを照らしていてくださるのです。
           
「さへられぬ 光もあるを おしなべて
隔て顔(がお)なる 朝霞(あさがすみ)かな」
《法然上人御作「春のご詠歌」》

           
「春の光は、遮られることもなくいつも私たちを暖かく照らしてくれています。ただ、朝霞はその光を遮るかのように立ち込めております。」(意訳)
           
 このお歌は法然上人二十五霊場の一つである、東大寺指図堂(さしずどう)の御詠歌で、春の御詠歌とも言われ、すべての人を隔てなく救い取ろうとされる、阿弥陀さまのお慈悲のみ光を春の温かな陽射しに喩えて詠まれたものです。遮ることが出来ない光が差し込んできても朝霞が一様に隔てるように、私たちの疑い迷う心がお慈悲の光を隔てようとします。しかしながら阿弥陀さまは、たとえ疑い迷う心を持っても必ずお念仏を申す人を照らし、極楽浄土に救い取って下さるのです。

私たちの心の中にある朝霞が、どんなに隔てていようとも、何物にも遮ることが出来ない光、阿弥陀さまの救いのみ光が必ず私たちを照らしていてくださるのです。

眩しく温かな春の陽射しのように…。

合掌