日々のお念仏 令和2年6月

 6月になり今年も後半年となりました。私事なのですが、毎年一年の初めに二つ目標を立てています。一つはプライベートの事、もう一つは法務の事です。どんな目標かと言いますと、プライベートはダラダラとせずにメリハリのある生活を送る事、法務は毎日決まった時間に決まった回数お念仏をお称えする事です。

 年の初めに立てた目標を半年となる6月に思い返し、年末に反省するのですが毎年同じ目標を立てています。なぜかというと一度も納得のいく形で達成できた事がないからです。ですから今年こそはと同じ目標を立てるのですが、終わってみれば同じような事の繰り返しで納得のいくような結果になった事はありません。ダラダラとせずメリハリのある生活を送ろうと思っても、やらなければならない事があるのに、明日でいいや、まだ大丈夫と先送りにしてしまう。お念仏も今日は疲れたからいいや、違う時間に称えたからいいやとさぼってしまう。そうしているうちにもう半年、もう一年と日々が過ぎてるそんな事の繰り返しです。皆様はどうでしょうか、私と同じような経験をした事のある方もいるのではないでしょうか。

 浄土宗が何よりも大切にしているお念仏を称えるという事、なのにお念仏を称えない時があると僧侶なのにダメだなと思ってしまいます。
法然上人が日々のお念仏についてこの様な事を申しております。「たとえ何か支障があって日々の念仏を欠かしてしまう事があっても、そこで「あさましい事だ、お念仏を称えなかった」などと思うのであれば、それはすでにお念仏を心がけているからなのですよ。とにかく、お念仏を忘れる事がなければ、それはお念仏を相続している事になるのです。
お念仏を称える事を忘れてしまう事があっても、欠かしてしまう事があっても、思い出した時、出来るときにお念仏をお称えするという事が大切なのではないでしょうか。
この言葉に甘え、おろそかにするのではなく、自分の励みとし、忘れてしまってもそこで終わりではなく、思い返し続けていく、そうしているうちに自然と生活にお念仏が溶け込んだ日々を過ごすことができるのです。

 私もいつの日か目標を目標としてではなく、当たり前の事として日々を過ごせるようになるまで勤めていきたいと思います。
皆様もまずはお念仏を称えてみて下さい、そしていつの日か当たり前の事として自然とお念仏を称えられる日々を過ごしていただければ、たいへん有り難い事です。 合掌