構えずにただお念仏を 令和7年3月

  時は三月を迎え、そろそろお彼岸の声を聞く頃となりました。
今朝がたは私のお寺の庭にも、白くなごり雪が降っていましたが、お昼時ともなると淡く溶け、もはやその白さもありません。
 そのように一日増しに冬から春への移り変わりを感じる毎日の朝、うちの本堂にはお念仏を聞いてくれている方がいらっしゃいます。
 誰でしょうか?阿弥陀様?それは当然ではあります 阿弥陀様の救いの力を頼んでこそ我々がお念仏する意味があるのですから。無論それを思わない事はありません。
しかしそれに加えて、ある一人の方のご遺骨をお預かりしているのです。

 それはこの冬に亡くなられたあるお檀家さんのお骨で「雪深い冬期間では納骨もままならぬどうか暖かくなる間までお寺で見てくれないか」との事で、ご遠方の家族の方から託されておりました。そんな経緯でこの冬は、そのお檀家さんを偲びつつ日々お勤めしていました。
 思えば一年半ほど前までの元気な時は、私がご自宅にお参りに行けば、一緒に仏間で後ろに座ってお念仏してくれたなあ、今もこちらのお念仏が届いているといいなあなどと思いつつ、お勤めしては時折り、好物だったお供物をあげたり、お下がりを頂いて家族で食べたりしていました。
そんな中、先日四十九日を迎え、ご家族の方が来られて法事を行い、お勤めをし、最後には一緒にお念仏を申してくれました。ありがたいことです。

 そこで私がそのお檀家さん家族に言ったことなのですが「今日は一緒にお念仏してくれてありがとうございました。皆さんはお通夜・お葬式の時もちゃんと南無阿弥陀仏と申してくれて、今日の四十九日もしてくれた。お作法はばっちりですね」みんなにこにこします。
ですが、続けて「では昨日はどうでしたか?お念仏できましたか?」そう聞くとみんな照れくさそうに笑います。なかなか難しいですね。

 そう、法事などの特別な日、スペシャルデーにお念仏する事はわりと難しくありません。法事を志して実行するくらい心ある方なら、なおさらです。しかしそんな方でも「普段はどうですか?」と問われるとあまり意識してなかった、言われて気が付いたと思う方が大半のようです。
 別に責めているわけではありません。フツーの人、仏教では凡夫と言いますが普通の人の意識とはそのようなものです。そんな凡夫でも実行できて、仏様の救いをいただけるのがお念仏の行いであり、それをし続けましょう、というのが浄土宗の法然上人の教えであります。
 ふだんの日のお念仏も、法事の時の念仏もなにもかわらないのです。

 現代人の一生とは長いものです。皆様には顔を洗う、歯を磨く、挨拶をする、そんなごく当たり前の行為と同等なくらい自然に、気を張らず無理なく、阿弥陀様の名前をお唱えしながら生きて頂ければなあと思っております。

 世界的なプレゼンテーション「TED」によると「人間は三週間続けられた物事は、一生継続できる習慣となる」そうです。
 最初は慣れないかもしれません、しかし人と回数を比べたり、声の良さを優劣をつけて見ても阿弥陀仏様の救いには、一級二級の隔てもないし、ねっころがっても、立っていても座っていても時間が長くても短くても、何も差し障りがない、と浄土宗の元祖、法然上人は教えて下さっています まして救いの時がいつ来るか、それをはっきりと分かる人はなかなか居ないかと思います。
ただ、最後の時まで念仏は申さなくてはならないのです。
 きっかけはなんでも構いません。この拙文が眼に止まって、最後まで読んでくれる方も稀かと存じます。
 なむあみだぶつと言ってみませんか。