明日ありと 思う心の仇桜 夜半の嵐に吹かぬものかは 令和5年4月

 北海道もようやく桜の季節となりました。

明日(あす)ありと 思う心の仇桜(あだざくら) 夜半(よわ)の嵐に吹かぬものかは
「明日桜を見ようと思っていても、夜中に嵐が吹いて散ってしまったら、花を見ることはできません。ですから明日の桜の花を見ようと思う心ほどあてにならないものはありません。」

 これは9歳の少年の詠んだ歌と伝わっています。その少年は後に法然上人の弟子となり浄土真宗の開祖となる親鸞聖人です。
 聖人は藤原の流れをくむ日野有範(ありのり)を父、源氏の流れをくむ吉光御前(きっこうごぜん)を母として京都に生まれ、幼名を「松若丸」と名づけられました。
 しかし4歳の時父、8歳の時母を亡くし天涯孤独の身となります。
 両親の死そして時代は公家中心の平安から武士が実権を握る鎌倉戦乱の世。
 9歳の松若丸は僧をこころざし、伯父日野範綱(のりつな)にともなわれ、京都青蓮院(*1)の慈円和尚(*2)を訪ね、出家得度の式(僧になる為の式)を願い出ます。
 慈円和尚は範綱より松若丸の家庭の事情を聞き、本人の決意をただし、得度の式を心よく引き受けます。そして慈円和尚は2人に「得度の式は明日朝にしましょう。明日の朝準備をして待っているので、今日のところは帰ってゆっくり休むように」と話しました。範綱はお礼を言い立ち去ろうとしますが、とうの松若丸は慈円和尚の顔をじっと見たまま動こうとしません。その姿を見ていた慈円和尚は「何か言いたいことがあるなら言ってみなさい」とやさしく声をかけて下さいました。すると松若丸は「得度の式をぜひ今日これからしていただけないでしょうか」と一言はっきりと述べました。それに対し慈円和尚は「はやる気持ちは判るが、今から準備をしたのであれば式は夜半になってしまう。やはり明日の朝のほうがよいのではないか」と松若丸を諭します。
すると、松若丸は冒頭の歌「明日ありと・・・」を詠み今日の式を再び願い出ます。
 慈円和尚も松若丸の固い決意と生きることのはかなさを桜花にたとえた歌に感じ入り、その夜式を執り行ったと伝えられています。

 明日あり明日ありと、後回し日を重ね、たまたま夜半の嵐に運よく会わず、筆者も今年還暦を迎えました。しかし、今まで六十年何か1つでも自分自身納得のゆく事を成し遂げたかと問われれば、その毎日のつけか、恥ずかしながら何一つありません。
 今を生きそして今日限りの命と思い、お念仏をお称えすることこそ尊い一日となり、それがいかに大切かと改めて思う今日この頃であります。

*1 青蓮院…総本山知恩院の北隣にある天台宗の門跡寺院
*2 慈円和尚…慈鎮とも言う。法然上人に深く帰依していた関白九条兼実の弟