7月中旬頃、4~5年ぶりに友人から電話があった。
懐かしさからつい「久しぶり!生きてたのか?」などと軽口を叩きながら電話に出た。
「お前もな。」などと返され、しばらく話をしていると、急に友人は真面目な口調になり、
「実はなぁ…」と話し始めた。
5月末ごろ、家で休んでいた彼は突然胸が苦しくなったそうだ。あまりに尋常でない痛みだったが家に誰もいない。仕方なく自ら病院へ向かった。診察を受けると医師の顔はみるみる青くなり、即入院即手術と告げられた。
バタバタと用意を進めるスタッフの足音を聞きながら、「あ、このまま逝ってしまうのかな?」と考えていたそうだ。
手術後、一か月半の入院を経てようやく退院となり、幸いに後遺症等もなく元の生活に戻りつつあるという事だった。
昨年50歳を迎えた私にとってももちろん他人事ではない。
『往生浄土用心』の中に「ただし人の死の縁は予かねて思うにも叶いそうらわず。」とあり、人の死の縁は思うようにならない。
当たり前のことだ。だが我々は普段の生活の中でそのことを忘れがちになっていないだろうか?
少なくても私はそうだ。
『往生浄土用心』では、さらに「にわかに大路、径にて終る事もそうろう。また大小便痢のところにて死ぬる人もそうろう。前業逃れ難くて、太刀たち小刀かたなにて命を失い、火に焼け水に溺れて命を滅ぼす類多くそうらえば、さようにて死にそうろうとも、日ごろの念仏申して極楽へ参る心だにもそうろう人ならば、息の絶えん時に、阿弥陀、観音、勢至来たり迎えたまうべしと信じ思召すべきにてそうろうなり」と続く。
人の死の縁は思うようにならないものであるが、日頃念仏を称えていた者の最期には間違いなく、来迎があるとしている。
平生からお称えするお念仏。それは臨終のお念仏へと繋がってゆく。
なむあみだぶつ
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