わが身を省みる 令和5年6月

ある時、お釈迦さまは、弟子にむかって、次のように問いかけられました。
「悪いことを、悪いと知りながら、悪をなすのと、悪いことを悪いと知らないでなすのとはでは、どちらが罪が重いか」と。

すると弟子の一人が「知らないで悪をおこなうより、知っていながら悪をなすほうが罪が深いのではないでしょうか」と答えました。
皆もそう思っているだろうが、そうじゃないのだとおっしゃられ「焼け火箸(ひばし)」の例えを示されました。
「ここに鉄が赤くなるほど熱くなった、焼け火箸があって、その火箸を掴(つか)まねばならなくなったとしよう。
持てば大変な火傷(やけど)をすると知っている者は、つかみ方が違うから火傷の程度も軽くすむ。しかしながら焼け火箸の熱さを知らない、子供が持ったとしたら、ギュッと握ってしまい大ヤケドをしてしまうだろう」

この例は、悪の自覚のない者がやることは歯止めがなくとことんやってしまいます。 悪の自覚のある者は、後(うし)ろめたさがある、その分どこかに手加減があるし、心から悪いことをしてしまったという自覚のあるものはし、それを悔い改めるという期待が持てます。

「なるほど」と納得するたとえですが、お釈迦様と比べ愚かな私たちは、善悪の区別というものも、曖昧です。自分の都合によって変わってしまいます。

それでは、悪や罪の自覚はどこからくるのでしょうか。それは、仏様の光に照らされて、はじめて自覚が生れ、そこから悔い改める心が生まれるのであります。
お釈迦さまは、私たちの心は、僅かな光もささない真っ暗闇「無明(むみょう)」であるとお教えくださいました。
真っ暗闇であるから、どちらに進んでよいか、何が正しいかもわからず、迷い・苦しみ、善悪の区別さえ付けることさえ出来ないのです。

南無阿弥陀仏「助けたまえ阿弥陀仏」を仏様の名を呼ぶものは、阿弥陀仏が放つ光明が心を照らしてくださって、自分の姿を省み、言動を良い方向へ変えていくことができるようになっていくのです。
その姿は、ご先祖様だけではなく、あなたと今を共に生きる人々も喜んでくださることでしょう。

どうぞ皆様ふるってお念仏を申して下さい。