西の端 令和6年1月

 ”見えるもの、見えないもの ー ながむる人の心にぞ住む”
 
 私の寺坊は広い北海道の中でも西の端にあります。それゆえ日没時には、日本海の空と波濤を赤く染めながら沈む夕日の姿を見ることができます。
 一口に赤と申しましたが、時計にすれば僅か5分、10分の間に、赤橙黄緑青藍紫が空の青、雲の白、滄海の碧を彩っては消え、消えてはまた移り変わってゆく美しい光景は、極楽浄土の有様もかくの如しかと感ずる次第であります。
 しかし阿弥陀様の救いの光とはなんでありましょう。お念仏を申する我々自身を照らして、西方極楽世界に救い取って下さるという光は、それらを含みつつも、さらに深く広く、人間の認知や感覚を超えて確かにあるものなのではないでしょうか。
 我々の認識できる可視光線とは、下限は360-400 nm、上限は760-830 nm(ナノメートル)という前述した青から紫までの僅かな範囲にすぎません。赤外線・紫外線という言葉があるように、その他にも様々な光が我々の娑婆世界の中でも縦横に走り回っているのです。
 たとえば「眼に見えるものしか信じられない」という方も、現代人であればどうでしょうか、レントゲン検査でX線(これも見えません)の恩恵を受けていたりはしないでしょうか。
 一見荒唐無稽のようでも、いずれは科学技術の進歩によって阿弥陀様の光の機序が解明される可能性もゼロではないでしょう。
 さて、かくいう自分自身はどうかと言えば、昨今老眼なるものがある日突然やってきて去りがたく、眼鏡を上げて新聞などを読む人生の先輩方を笑えなくなって参りました。昭和の名随筆家山本夏彦の「人は一年に歳を一つとるのではない、ある時にまとめてとる」との言葉はこのことか、昨日まで何の労苦もなく見えていたものとは実に貴重な移ろいゆくものかであったか、などと痛感しております。
 しかしそんな中でも、声に出して「なむあみだぶつ」とお唱えする法然上人の説かれたお念仏は続けられる、また人にも勧める事ができております。
実にありがたい事と思っております。
 限界がある我々人間の眼には見えないかもしれませんが「自分は確かに仏様、阿弥陀様の救いの光に照らされている」のとの心持ちで、東南西北どこであろうが、どんな場所でも、どんな時でも「南無阿弥陀仏」とおとなえください。
かならず阿弥陀様の光は照らしてくれています。